今日は少し真面目な話をしたいと思います。
先日、「藤沢市長立候補予定者事前説明会」に参加したあと、記者の皆さんから「(藤沢市長選への)出馬を考えたのはいつか?」という質問をいただきました。
その場でも、もちろんお答えしたのですが、せっかくなら自分の言葉で、このページを見て下さっている方に伝えたい、と思い、今回のテーマにしたいと思いました。
私が、「藤沢市長に挑戦して、全国のモデルになるような街づくりに尽力したい」、と本気で、真剣に腹をくくったのは、2015年9月16日、私の49歳の誕生日のことです。
それまでの経緯が伝われば、と思います。
ちょっと長いので、先にトピックをご紹介。(※クリックすると読みたい場所に飛びます)
前職を辞めるまで
私は前職では日経BPという会社のサラリーマンでした。
この会社では、Web媒体の立ち上げ、記事コンテンツの執筆取材、ネットと実社会のサービスを構築したり、多岐にわたる業務に従事しました。
入社当初は半導体をメインにしていたのですが、曲折を経て、日本の医療体制や社会保障をテーマにした「21世紀医療フォーラム」という取り組みの事務局を長く担当しました。
そこでは、医療に関わる方、医師、医療従事者、行政担当者、政治家、NPO団体の方など、様々な方がそれぞれの立場で、現在の医療体制の問題点や解決策について話し合っておりました。
ここだけ聞くと、難しい話ばかりだと思われるかもしれませんね。実際に、専門用語飛び交う現場で必死になっていた頃もありました。
しかし、しばらくすると話の内容が分かりはじめ、「この議論は、自分の暮らしにまつわる大切なことなのだ」との思いが芽生えるようになってきました。
そして、「こういう取り組みが、いつかは自分の暮らす街をより良くするための仕組みになればいいなぁ」と漠然と思うようになっていきました。
ちょうどその頃、フォーラムでは「地域包括ケア」という言葉が聞かれるようになってきました。簡単に「地域包括ケア」を説明すると、高齢社会で独居・2人暮らしの高齢者世帯やいわゆる核家族世帯が増える今日において、疾患(認知症、糖尿病など様々です)を抱える人の暮らしを地域全体で支えていく、というものです。
医療体制だけでなく、介護や、健康な生活のための日々の暮らしのあり方など、様々な点から、面になって地域に住まう人同士がそれぞれの立場で支え合いながら、充実した暮らしをさいごまで全うするための仕組み、と言い換えられるかと思います。
さて、フォーラムで挙げられた課題の中に、「そうした取り組みが必要な理由や、実践のための方法は話し合われてきたけれど、『では、考えたことは実際に実現できるのか?』」というものがありました。
なるほど、確かに議論は深まっても、実際にできるのか。
できない場合にどんな打開策があるのか。
こうしたことは、「やってみないと分からない」ことです。
そう思いながらメモを取っていると、ある方に「どう思うか?」と水を向けられました。
このことがきっかけとなり、市長への道を志望した、と言っても過言ではありません。
(が、当時は「そうですね…。難しいことですね」くらいの答えしかできませんでした…)
このことは、ずっと私の心に残っていました。
折りに触れ、身近な人に「地域で包括的に支えあい、生活を豊かなものにする、というのを全国に先駆けてできればいいと思う。そのためには市長という立場が必要だと考える。自分もいつかは市長選にチャレンジしてみたい」と、話題にしていると、「笑い話」として扱われることもありました。
しかし、一方で、
「日本は、2030年に65歳以上が3人中1人の割合になる、超高齢社会を向かえる。これに対応するにはどうすれば良いか。歴史上でケーススタディはない。
でも、だからこそ、ただその時が来るのを待つのではなく、例えば医療費の上昇を抑えるために、一人ひとりが健康であることに向き合い、取り組むための働きかけをしたり、街全体のあり方を見直したり、今からできること、今まさにするべきことがあるはずだ。
それをするなら、市長として活動できるように努力してみるのは良いんじゃないか?」
という風に返してくれる方も多くいらっしゃいました。
そうした話をしているうちに、自分の中で、“地域がもっと豊かになる仕組みづくりに尽力していきたい”、という気持ちは強くなっていきました。
生きること、高齢者のあり様についての原体験
さて、ここで少しだけ、私が何故「地域医療、地域のつながり」について考えを巡らせるようになったのか、紐解いてみたいと思います。
私の父は、病院の設備管理に関わる仕事をしていました。
(雪国ならではの、整備etc.、なかなか大変な仕事です)
そんな父に連れられ、病院に出入りするのが私の幼い頃。病院を遊び場のようにしていたわけです。そうすると、高齢で家族から離れて治療に励む高齢者にとって、幼い私は“マスコット”的な存在に。随分可愛がってもらいました。
いろんな話を聞かせてくれたり、お菓子をくれたり…。そうして凄く歳の離れた「友達」になったことで、私自身も、彼ら彼女らを喜ばせたい、笑顔にしたい、という思いを抱いていきました。
この原体験は、今の私の考え方などに大きく影響しているものです。
時が過ぎ、そうした体験も朧げになりながら、東京で社会人として生活していると、あるイベントのお手伝いをする機会が巡ってきました。
それは、幕張メッセで開催された「WORLD PC EXPO(現ITpro EXPO)」のことです。
ここで、60歳代の方をメインターゲットに、「PC/ケータイ教室」をやってみよう、ということになりました。これからの時代、「高齢者がITの力を使って生活を充実させる」というモデルはごく普通のことになる、という考えが企画の元になっています。
当日は大盛況で、3万人くらいがこのレッスンを受け、大盛況となりました。
ことほどさように、高齢者のあり様、社会で生き生きと暮らす、ということについて考えたり、それをお手伝いすることは、私にとって幼い頃から細く長く続く、ひとつの“使命”なのだと今は感じます。
日経BPを辞める時
さて、話を元に戻しましょう。
そうした原経験を下敷きにして、医療制度や社会保障について知るにつれ、自分の身近な場所である藤沢の暮らしとリンクして考えていると、居ても立ってもいられないようになってきました。
そこで、「悩むより、まずは自分を追い込んで、本当に市長を目指すべきか、自分が何をやれるのか考えてみよう」と決め、ついに日経BPの仕事、サラリーマン人生を終える決意をしました。
2015年3月末のことです。
このきっかけは、地域の防災無線でした。
会社を辞め、自宅で勉強と研究に時間を費やすようになったある日。「こちらは、防災藤沢です」とスピーカーが鳴り出しました。内容は、高齢者の方がひとり散歩に行ったまま帰って来ず見つからない、というもの。このことは、これまでの仕事で知ったことが今、目の前で実際に起こっているのだ、と知る機会になりました。
妻に、「こんな放送、流れるんだ?」と聞くと、「しょっちゅうだよ。あなたは家にいないから分からないのよ」と返され、さらに衝撃を受けました。
いかに「地域の現状」を知らなかったのか、という事実を目の当たりにした瞬間でした。
「21世紀医療フォーラム」でお世話になった先生方に、このエピソードを紹介したうえで「地域の医療ってどうあるべきかって、議論してきましたけど、結局のところどうしたらいいんでしょう?」という話をしたところ、
「儂らはもう歳なので、次の世代がしっかりやらなきゃならない。そのきっかけを作るようなことを、おまえは自分で考えてみたらどうなんだ」と言われました。
さらに、
国立長寿医療研究センターの鳥羽先生※1や大島先生※2には、「そうしたことを考え、本当に市長になりたいと思うなら、一度本気で勉強した方が良い。家族も養いながら、そうした知識を身に付けるなら、うちの臨時職員となってみないか?」と声をかけていただきました。
この申し出は本当にありがたく、男泣きすると同時に、家族のことを思うと少し安心した気持ちになったものです。
人生はどうなるか分からないものですが、こうして手を差し伸べてくれる人に出会えたことには、感謝しかありません。
※1 国立研究開発法人国立長寿医療研究センター 理事長 鳥羽研二先生
※2 国立研究開発法人国立長寿医療研究センター 名誉総長 大島伸一先生
高齢者をはじめとする、地域の連携を目指す理由
国立長寿医療研究センターで学んだことは非常に貴重なことでした。
「認知症にならないための予防方法と対策。さらに、この病気に本人や家族がどう向き合うかについて」や「認知症の当事者を地域で見守り支えるにはどうすればいいか? 同時に、その家族をどう支えなければならないか?」ということ、「認知症になったあとの人生を自分らしく生きていくためには、本人はもちろん周囲はどうすればいいのか」といった、より実践的なことを考えるきっかけとなったことは言うまでもありません。
こうした経験を元に、私が今、最重要な提言として掲げるのは、
「高齢者にもやさしいまち・藤沢」をつくることです。
もちろんこれは高齢者に限らず、この地域に暮らすすべての人にとって、ここ藤沢を「さいごまで暮らしたいまち」にするための、1つのピースと考えています。
私のキャッチフレーズは「くらし・あんしん・たのしい」ですが、このどれ1つも欠けてはいけないのは、地域がつながるために、必要なことだと感じているからです。
政策の話は、また別の記事で詳しく記していきますが、この3つが合わさることが重要だ、というのは、人が暮らす中で、例えば高齢者や子供たち、子育て世代、若者、どれもそれ以外の人とのつながりなくして生きることができず、社会はその“登場人物”すべてによって動かされていると考えているからです。
だから、誰かにとっての幸せが、他の誰かにとってもより良く感じられるように、と願って、LINK(つながり)を強くしていくことができればと思っています。
私の提言のどれか1つでも、皆さんがそのことについて考えるきっかけになれば、嬉しく思います。